ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 哲学 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

[読了]バカロレアの哲学 「思考の型」で自ら考え、書く

バカロレアの哲学試験については日本でも度々話題になる。本書にて著者は日本に導入すべしという立場では一切なく、むしろその点については否定している。

その上でバカロレアの哲学についてどのように問題について考え、回答するのかを「思考の型」という言い方でパターン化し紹介している。

その考え方は所謂論理的思考とも言い換えが出来るのかもしれない。それほど役に立つ考え方であると思った。特にビジネスにおいて答えのない問いについて考え、自分の意見を見出す必要性や方向性を示す必要性がでてくることがあるが、「思考の型」を用いることで、ある一定の回答を行うことが出来るようになるかもしれない。

本書の最後に述べられている文がとても印象的で

問題を発見する力、問題を解決する力を身につけるということは、逆説的ですが「答えが出ないこと」に対するおそれを減らすものでもあるのです。

さらに、問いへの答え方を知っていることは、「答えが出ないこと」だけでなく、「意見が変わること」も恐れない、そうした態度をそ立てるように思います。 

この点はなるほどと思いました。 

[読了]情報環世界

他社を理解したり、わからないものが分かる・理解するとはどういうことでしょう。
普段私達が過ごしている環境や習慣から形作られている生活は所謂コンフォートゾーンであると言えるわけですが、それは閉じた世界、すなわち環世界の中で生活しているといっても良いわけですが、本書ではその環世界を前提とした上でモノや人との関わり、すなわち環世界通しを何らかのインターフェースを通して理解するという概念に昇華させます。

人と人や人とモノの関係性や相手となる対象を理解するというのはどういうことなのか、理解できないという状態はどのような状態かというのを環世界という話で記述してみると意外と面白く見えることが多いと感じる良い本でした。 

[読了]その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。: 古代ローマの大賢人の教え

「人生談義」は途中で読むのやめてしまったけれども、もう一度読んでみようと思える本だった。「人生談義」は時々「結局何が言いたかったんだっけ?」とか「この発言は誰の発言だ?」と思った記憶。

とはいえストア派について、この本で触れることが出来たと同時にわかりやすい説明に助けられた。

まだちゃんと理解出来ていない事を承知の上で以下書くけれども...

本書を読んでいて最終的に今現代において「権内」の幅は本当に広がっているのだろうか?という疑問を持ちました。エピクテトスの時代においても例えば大工や当時の医者はいた訳で、もちろん現代に比べると技術だったり学問としての幅や深さはそこまで無いかもしれないけれども、その当時においても「権内」は心像の正しい使用のみとされている。

「権内」を自分でコントロールできる範囲、自分が選択できる範囲と捉えてしまうと、たしかに「権内」は時代とともに拡大しているのかもしれないけれども、やっぱり現代においても権内は広がっていないのではないか?という気もしなくもない。
神々は全てのうちで最も有力で肝要なもの、すなわち心像の正しい使用だけはこれを我々の権内においたが、その他のものはこれをわれわれの権内に置かなかった
少なくとも仮に手元のスマートフォンの地図アプリを利用して目的地に到達する事ができるという事象において、そのスマートフォンを活用すること自体を自分のコントロール下、すなわち「権内」と理解したとしても、結果が例えば時間通りに到着しなかったりするといったコントロール出来ない結果となる可能性があるのであれば、そもそも自分のコントロール下における選択とコントロールできない結果が結びついている状態というのは、果たして「権内である」と言えるのだろうか?と、うまく説明出来ないけれどもボヤッと感じたりした。

そして要約としての以下の文にも多少違和感が残る。
論理的に思考し(論理学)、正しく自然を認識した上で(自然学)、よく生きる(倫理学)
それまで散々「論理学」は現代の「論理学」とは異なる点を述べてきたではないか。なぜそこで現代解釈を当てるのか?と。

本書はストア派、エピクテトスについての入門としては最適ではあり、また平易に書かれている事から理解も進むけれども、対話形式が逆に論点や主張をボヤかしてしまっているような部分があるような気がします。