とはいえストア派について、この本で触れることが出来たと同時にわかりやすい説明に助けられた。
まだちゃんと理解出来ていない事を承知の上で以下書くけれども...
本書を読んでいて最終的に今現代において「権内」の幅は本当に広がっているのだろうか?という疑問を持ちました。エピクテトスの時代においても例えば大工や当時の医者はいた訳で、もちろん現代に比べると技術だったり学問としての幅や深さはそこまで無いかもしれないけれども、その当時においても「権内」は心像の正しい使用のみとされている。
「権内」を自分でコントロールできる範囲、自分が選択できる範囲と捉えてしまうと、たしかに「権内」は時代とともに拡大しているのかもしれないけれども、やっぱり現代においても権内は広がっていないのではないか?という気もしなくもない。
神々は全てのうちで最も有力で肝要なもの、すなわち心像の正しい使用だけはこれを我々の権内においたが、その他のものはこれをわれわれの権内に置かなかった
少なくとも仮に手元のスマートフォンの地図アプリを利用して目的地に到達する事ができるという事象において、そのスマートフォンを活用すること自体を自分のコントロール下、すなわち「権内」と理解したとしても、結果が例えば時間通りに到着しなかったりするといったコントロール出来ない結果となる可能性があるのであれば、そもそも自分のコントロール下における選択とコントロールできない結果が結びついている状態というのは、果たして「権内である」と言えるのだろうか?と、うまく説明出来ないけれどもボヤッと感じたりした。
そして要約としての以下の文にも多少違和感が残る。
論理的に思考し(論理学)、正しく自然を認識した上で(自然学)、よく生きる(倫理学)
それまで散々「論理学」は現代の「論理学」とは異なる点を述べてきたではないか。なぜそこで現代解釈を当てるのか?と。
本書はストア派、エピクテトスについての入門としては最適ではあり、また平易に書かれている事から理解も進むけれども、対話形式が逆に論点や主張をボヤかしてしまっているような部分があるような気がします。
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