
「メディア」に対して歴史的な背景と、思想、その変遷と対立を追っている本ですが、改訂版ということで2012年の発売までの比較的最近発生した出来事なども踏まえて書かれているため、911のテロだったり「アラブの春」、「アルジャジーラ」のグローバル的な注目などにも触れられています。
メディアとしての「テレビ」や「ラジオ」「携帯電話」などに注目して、その歴史を紐解くのも面白いですが、個人的にとても注目したのは、ラザースフェルドによるメディアの限定効果モデルに対する批判のあたりです。
主にテレビに対するものなのですが、ラザースフェルドによるメディアの限定効果もでるとは、一言で言ってしまうとコミュニケーションや社会構造の多元的なモデルによって、メディア効果が限定的だとするモデルなわけですが、社会構造の多次元とは即ち垂直的な権力関係が大きな力をもたらす次元構造と、水平的なコミュニケーションを示します。
それに対して数々の批判が起こるわけですが、一つ目は「議題設定機能」です。
これは現在テレビでもインターネットでも、おそらく他のメディアである雑誌やラジオなども含めて見られるものですが、例えば選挙の際に特定の議題を設定し、議論が集約されることによって、ある特定の論点を外したりするという機能です。
メディアが意識するにしても、しないにしても、この議題設定機能により世論的に(?)議論すべき内容ではない、またはメディア的に大衆受けしない議題は無視されることとなるのです。
また、二つ目の批判として、ノエルノイマンの「沈黙の螺旋モデル」があげられていますが、これはメディアによって多数派の意見がマスコミに認知され、報道されるに従って、少数派を段階的に圧倒していくという螺旋的なプロセスを示します。
これもなんとなく理解できるのではないでしょうか。
社会心理学的な実験などからも人が多数派の意見に反発して一人だけ、または少数グループとして対立意見を表明し、行動することは難しいとされますが、メディアによる報道が多数派を作り出すことによって、少数派をどんどん押し殺している可能性があるのです。
次に3つ目の批判ですが、「培養分析」があげられています。
これはメディアが流し続ける暴力シーンと長期にわたって接触し続けることで、累積的な仕方で人々の社会認識が変化していくような事象を指すのですが、これは現在で言うならば「ゲーム脳」というものだったり、もしかすると児ポ法絡みで報道されるものも含まれるかもしれません。
犯罪における予防ということで、「潜在犯」という概念が適切なのかどうかは分かりませんが、現在のメディアや国家における犯罪予防的な議論を見ている限り、この「培養分析」の概念が根底にあると言っても間違いではないかもしれません。
4つ目にあげられている批判は、「知識ギャップモデル」です。
これは高所得層と低所得層などでの情報取得の速さの違いを示します。テレビやインターネット、スマートフォンなどのテクノロジーは情報の伝達速度を速め、一瞬であると言っても良い状況になりました。
マクルーハン的には「グローバル・ヴィレッジ」の誕生とも言えるかもしれませんが、人が情報を伝えた瞬間には、そのリアクションが瞬時に発生するため、情報発信に際しては常に結果を意識する必要性が出てきたわけです。
話を元に戻すならば、そういったテクノロジー、今後はIoTも含まれて来ると思いますが、そういったテクノロジーの利用には、どうしても物理的なお金が必要となってくるため、グローバル・ヴィレッジの住人になるためには、ある程度の所得が必要であるということです。所謂「情報の非対称性」と言われるものだと言っても良いと思います。
5つ目の批判は「メディア依存モデル」です。
これは受け手 - メディア - 社会の3者の関係の中で、メディアに依存している度合いによって変化するというモデルですが、これも感覚的に理解できるものではないでしょうか?
同じ情報や同じ番組、同じインターネットサイトや一つの宗教などに所属し、その知識に触れ続けていることで、その行動は影響を受けるとされます。
どの批判モデルはメディア研究者という立場ではない私たちでも何となく納得できるところではありますし、「ゲーム脳」に代表されるように、インターネットメディアだけでなくテレビなどのマスメディアや、児ポ法に見られるように国という権力団体などの思想の根底にも見え隠れするものでもあります。
後半で書かれている「メディア・リテラシー」を考える上では重要な部分だと思いますが、現在、そして未来を捉えていく上でメディアが人に与える影響とは何か?という部分を考えるイイきっかけになりました。
インターネットという世界を大きく捉えると、マクルーハンで言う「クールメディア」であると言えるわけですが、即ち自分で何かの情報を求めなければ得られないというメディアです。
一方でウェブサイト単位で見るならば、Googleが尊ぶインターネットサイトとは「ホットメディア」、即ち現実世界で言うならば「授業」や「講義」と言われる、知識や情報を100%教わり、それで全てを理解が出来るようなサイトです。
Googleはそのサイトに対し「Authority」という指標をもって判定をしていくわけです。
また、ウェブサイト内のコンテンツは、そのウェブサイトにゆるく所属をしてはいますが、切り出され、ユーザー、一人ひとりとのマッチングにより提示されたりしています。
GoogleのPlay Newsstandというアプリだったり、グノシーだったり、それをサービスとして提供しているものはいくつもあるでしょう。
あたかも一人ひとりには大学だったり、学部だったりといった所属だけでなく、興味関心から導かれる、所謂「タグ」が存在するわけで、そのタグ一つ一つとコンテンツの「距離」が計測され、接触したりしているわけです。
そこにインターネット批判的な意味で、知らず知らずの間に一つのコミュニティ的な輪が発生し、全く他の文化や思想、考え方などに接する機会を失ったりしているとも言えます。
タグ付が難しいウェブサイトに関しては、タグそのものを登録してもらうという作業をさせるウェブサイトであったり、キュレーターを沢山用意して、自分から「フォロー」するように促すウェブサイトなどが存在しています。
テレビに接触する時間が減り、より身近(24/7/365)なメディアであるスマートフォン・携帯電話であったり、物理的な場所がある程度固定される可能性が高いデスクトップPCなどへの接触時間が増えることによって、より「メディア依存モデル」が働く可能性が高くなっています。
日常的に「クールメディア」と思われる「ソーシャルメディア」と接する時間も増え、そこでコンテンツや思想がバズることは、「培養分析」の拡大と捉えることもできます。
今後インターネットという世界では、よりパーソナル化していく事が考えられ、広告の世界でもマーケティングの世界でも、個人の行動を予測することを目指しています。Amazonも実際の注文を予測し、物理的に近い配送センターでストックしておくことを目指していたりします。
未来の生活を妄想した動画はYouTubeで複数見ることが出来ると思いますが、物理的な生活においては、その人のいる場所、時刻、予定などを元に、例えば起きて鏡(メディア)の前で支度をしている間にも天気や日程が表示されるといった動画もあるでしょう。
インターネットにてサービスを行い飯を食っているという立場では、ウェブサイトのホットメディア化が即ちユーザーの中にAuthorityを確立し、何かのアクションを取るきっかけとなるのか?という点が非常に気になっています。
昨今、ザッポスをはじめ動画マーケティングが話題になることも多くなりました。
ウェブサイト1ページ分の文字情報以上に1分の動画のほうが得られるモノが多いこともあるでしょう。その意味において「動画」というメディアを再度考えるという意味で本書を読んで見るのも面白いと思います。
動画を見てから商品を購入する人も今後増えてくると思いますが、本書を読んで少し考えさせられたのが、「動画」というものが現実を再現するわけではなく、感覚を再現すると言っている点です。
最初その言葉を見た時「なぜだろう」と思ったわけですが、すぐに「共感覚」という言葉と結びつきました。
確かに動画は現実を再現するものという捉え方ではなく、「共感覚」を生むメディアだと捉えるべきでしょう。
それは今後3Dメディアが増えてもおそらく変わらないのかもしれません。ゲームのクォリティの綺麗さがいくら向上しても、そこから得られる共感覚の強さが、その後の意思決定に影響を及ぼすのかもしれません。
文字という記号ではエンコードの問題だったり、メディアの受け手によるデコードの問題が発生する可能性が高くても、動画であれば「共感覚」という感覚に直接的に訴えかけられ、その動画が意味するモノを再検討する必要性はないでしょう。
その意味においては文字という記号はクールメディアであり、動画はホットメディアと言えるかもしれません。
こう書いていても、おそらく私自身が書くに至った知識的なベースであったり、環境を共有していなければ、読む人のデコード時に全く正反対の意味に捉えられることもあるわけです。
ウェブサイトにおける「UX」や「UI」というものに関しても、本書を読みながら非常に考えさせられました。
凄くミクロ的な話になりますが、UIと一言で言うと雑ではありますが、クリック可能なボタンだったりプルダウンメニューであるといったUIの各要素一つ一つがマクルーハン的な「メディア」であるとするならば、その「メディア」から受け取るメッセージ・アフォーダンスとそのアフォーダンスを直感的に認識した結果発生する行動、そしてその行動に対するウェブサイト側のリアクションが「UX」だと言えると思います。
ウェブサイトにおけるUXは現実世界と紐付いていることが多いと思います。例えばクリック可能なボタンの見せ方だったり。
ただ、それは言ってしまえば「培養分析」と変わらず、何だかんだ言っても物理的な世界に対するインターネットメディアという構図があるからに他ならないでしょう。
つまり、もし仮にバーチャルな世界に滞在している時間が多くなればなるほど、UXの概念は大きく崩れる可能性があるのです。
ゲームの世界に何十時間も没入している人は、もしかすると現実世界におけるUXが大きく変わっているかもしれません。
そういう意味では、極端に言えば、ある特定の趣味がある人しか訪れないウェブサイトにとっては、一般的なウェブサイトにおけるUIの踏襲ではなく、その趣味のある人にしかわからないUIを採用することが最も重要になるのかもしれません。
ウェブサイト一つ一つが、それぞれ「インストラクション」と捉えてみるならば、その情報の送り手と受け手の存在だけでなく内容とコンテキストが重要となるわけですが、送り手が「一般的なウェブサイトである」と定義して提供したサービスと「料理好きが見るウェブサイトである」と定義して提供したサービスではUIの細部が異なるということです。
単純なファセットが料理に最適化されているだけで良いのかどうかを再検討してもよいでしょう。再検討しても良いのは恐らく送り手と受け手に共通するものが存在する場合というところでしょうか。
今後、インターネットはよりパーソナル化することにより、ウェブサイトのコンテンツがより流動的となり、ウェブサイトの中の1ページであるという認識よりも、自分が探していたページという意味で、インターネット自体が一人ひとりの「本」という概念に変わっていくと考えています。
検索エンジンは「索引」や「目次」というイメージです。
その本を常に持ち歩き、何かしたいときに必要なページを見るというような。
スマートフォンシェアが大きく上がっているのと同時に、ウェブサイトを読みやすくするといった「コンテンツを読む」ことに特化した機能がEvernoteだったりGoogleから提供されています。
それが進めるものは、ウェブサイトという単位の意識を薄くするというものではないでしょうか?
ややマクルーハン的な「メディア」の捉え方にはなりますが、メディアと行動、そして人の意思決定プロセスを再度捉え直すと結構面白いのかもしれないと思ったりしました。
吉見 俊哉
有斐閣
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